ワンダールクス批評

 ゲームデザイン同人誌「ゲームデザインの魔導書」( http://gdgrimoire.tumblr.com/ )に掲載されてゐる@geekdrumsさんの「ワンダールクス」なるゲームデザイン理論について批評します。

目的の確認

何度か読み直してみましたが、この「ワンダールクス」は何を目的とした理論なのかといふのが少々掴みづらいと思ひました。一旦「問題提起」の部分を引用します。

 ゲームをデザインするための理論や方法論は数多くあるが、ゲームの定義は幅広く、そのすべてを包括する理論というのは十分ではなかった。
 ゲーム全体をデザインする時に、ある部分がよく出来ていても、他の部分が原因でその魅力にたどり着かないという場合が発生しうる。物語の面白さ、メカニクスの面白さ、気持ちよさ、世界観、それぞれの要素のみを追求することは危険を孕んでいる。
 ワンダールクスは、ゲームという構造の「全体」を照らし出し、それらの「関係性」を明示することで、あらゆるゲームを対象に、
個々の要素の魅力をどう接続し、またはどう分離するかをコントロールできるようにするものである。(p.04)

 「ジャンルを超えてゲームの構造を説明する統一理論」といふのが基本方針のやうですが、「ゲームクリアまでプレイヤーを導くための処方箋」といふやうな位置づけも読み取れます。p.09にも「最後まで遊んでもらうため」とありますし、実用的な面からは寧ろこちらがゲームデザイン理論を立てる狙ひとして妥当ではないかと感じました。
 「ゲーム全体の構造」といふと「ゲームそのものの内容」を問題にすべきだと思ひますが、「ゲームそのものの内容」に就いて論じてゐるのか「プレイヤー体験」に就いて論じてゐるのかが至る所で混同されてゐるやうに思はれました。どちらかと云へば、プレイヤーの体験を中心に考へてゐるものと見受けられましたので、さうだとすれば、「ゲーム全体の構造の説明」ではなく「ゲームクリアまでのプレイヤー体験の概観」とした方が適切でせう。また、このことから「ゲームに於けるユーザーエクスペリエンス設計」といふ方向性が見出せます。そしてこれは「ゲームクリアまでプレイヤーを導くための処方箋」といふ目的には相応しい見方だと言へます。

タイムスケールの謎とレイヤーの関係性

 結論から申し上げますと、「タイムスケール」といふ概念の説明が付かない為、理論として破綻してゐると云ふことになるかと思ひます。
 ワンダールクスではゲームの要素は「情報」「応用」「遊戯」「進行」の4つのレイヤーに分類され、それはタイムスケールによる分類であるとされてゐます。しかし、各レイヤーの説明を読む限り、時間は関係無いのではないか、といふ気がしてなりません。タイムスケールとは何なのでせうか。「前提」には以下の様に書いてありますが、これだけでは漠然としてゐます。

「タイムスケール」とは時間の長さを適当なわかりやすい単位で区別するために用いる。
あらゆるゲームに適応させるために、数値には柔軟な幅を設けている。(p.04)

 最初の宣言でこのやうな言ひ方をされると困るのですが、基本的には「時間の長さ」のことであり、その長さは場合によって可変するといふことでせうか。残念ながらどんな場合にどんな時間が割り当てられるのかといふ例は無く、各レイヤーに目安となる曖昧な時間が示されるに留まってゐます。
 レイヤーの説明の注釈に以下の様なものがあり、タイムスケールが表す時間は「プレイヤーの認識する時間」と捉へられます。ただ、これは「客観的に計れる実時間とどう違ふのか」を明確にしないとあまり意味が無いと思ひます。「体感時間」を計る手段が無ければ、議論のしやうがありません。

※1 タイムスケールの軸を指数関数的な増加としているのは、人間の時間に対する認識がおおよそ指数関数的に変かすると考えられるため。
※2 「Player」という矢印が示すのは、そのゲームのプレイ時間に応じてプレイヤーがどのレイヤーの楽しみまで到達しているか、という流れであり、実時間軸とは違う。(p.05)

 ※2の説明では、レイヤーとは「プレイヤーが感じるゲームの楽しみ(良質な体験)の段階」であり、それはプレイ時間の経過により「情報→反応→遊戯→進行」の順に遷移すると読み取れます。ところが同頁の表にはレイヤーの構成要素としてキャラクターやSEなどの「ゲームそのものの内容」が挙げられてをり、理解に苦しみます。プレイヤーのプレイ時間を基準に区切れるものはプレイ体験そのものでしかない筈です。
 さう考へると「ゲームそのものの構成要素としてレイヤーがあり、特定のレイヤーの楽しみを享受するには特定のプレイ時間(=タイムスケール)を要する」と読むしかありません。しかし、それではレイヤーの定義にプレイヤーの体感時間であるタイムスケールを使用するのは適切ではないといふことになります。例へば、「アイテムの獲得」は進行のレイヤーに当たるさうですが、「数時間から数日のプレイ時間を経なければアイテム獲得の楽しみが感じられない」といふことは有り得ないでせう。或る程度習熟しなければ良さが分からないものもあるにはあると思ひますが、「数時間経つと進行レイヤーに分類される要素の良さが分かってくる」とか「数フレームで音楽の良さが分かる」とかいふ風に一概には言へないはずです。

 またこれらのレイヤーは包含関係にもなっており、情報が毎フレーム与えられ、複数のフレームに一度入力に対して反応が得られ、複数の入力によって能力を行使することで遊戯が成り立ち、複数回の遊戯を通した努力によって進行が得られる。(p.05)

 これに就いては遊戯をスポーツなどに於ける一試合とした場合に、遊戯が情報と反応により構成されるといふことであれば包含関係と言へさうです。しかし、進行は遊戯の結果得られるものであって、包含関係にはなってゐないと思ひます。一方で、一試合単位で見れば概ねどのやうなゲームでも当て嵌まると思はれます。ただ、飽くまで一試合単位のものであって、ゲームクリアまでにはこれらの内容が繰り返し現はれることになります。このことから、タイムスケールとは要素の出現頻度のことではないかと私は考へましたが、ワンダールクス内ではそのやうな記述はありません。
 もう一つ、気になるのは以下の一文です。

レイヤー構造はゲーム中にも変化しうる。(p.09)

 進行のレイヤーのタイムスケールを「数時間・数日」と長くとってあるにも拘らず、更にゲーム中に変化してしまふといふのは如何なものかと思ひます。これは最早レイヤーが時間に規定されないといふことを認めてゐるやうなものでせう。
 p.09の「ボトルネックがあるゲーム」の例を見ても、情報や反応のレイヤーが薄くて長いとはどういふ状態なのか想像できません。情報レイヤーは遍在するのであって、時間的な拘束は無いはずなので、仮に情報のレイヤーに魅力が無いとしても次のレイヤーへ進めないといふのはどういふことなのか分かりません。
 このやうにタイムスケールといふのが何なのか分からないし、レイヤーの定義と時間はあまり関係が無いと考へられますので、この理論は残念ながら根本的なところで躓いてゐるといふことになるかと思ひます。
 レイヤーとタイムスケールの関係が消えてしまふと、「情報→反応→遊戯→進行」といふ遷移の説明が付かなくなり、「レイヤーの関係性と、美しい再構成の方法」といふ節の内容が丸ごと説明がつきません。ゲームの途中で離脱してしまふかどうかはコンテンツの配分が問題であって、4つのレイヤーが順番に来るかのやうな考へは無用でせう。途中で離脱してしまひかねない中弛みがあるとしたら、実際のゲームプレイの中でどのやうな内容が出現するかを見た方が素直です。
 私がタイムスケールを理解できてゐないだけで、レイヤーの関係性自体は正しいのではないか、といふことも考へられますが、p.10の例を見ると不可解なところがあります。ゲーム性が殆ど無いがゲームと呼ばれてゐるものは有り得ますので、風ノ旅ビトの遊戯レイヤーが省略されてゐるのは有り得る話です。しかし、インタラクティブ性を完全に廃するとゲームは成り立ちませんから原則として反応のレイヤーは省略不可能なはずです。ところが、不思議のダンジョンは反応のレイヤーが省略されてゐると述べられてゐます。不思議のダンジョンは1ターンごとの状況変化に常に目を見張らねばならない様なゲームですので、入力一手一手にある程度の反応が返ってきます。これで省略されてゐるとするといふのは腑に落ちません。FF13の離脱の原因が進行のレイヤーにあるのならば、やはり順番がをかしいと思ひます。FF13の説明に苦難して「レイヤー構造はゲーム中にも変化しうる」としたのでせうか。もし、レイヤー構造がゲーム中に変化するのならば、ボトルネックを探すためには図が一つでは足りないといふことになり、或る時点でのレイヤー構造をどう示すかといふ話をしなければなりません。
 タイムスケールを抜きにしてレイヤーの大きさを図示しても、それは従来の「グラフィック・サウンド・手触り感・ゲーム性・ストーリー」などの切り口を言ひ換へただけに過ぎず、新しい理論とは言へません。おまけに、縦軸の魅力について何の指標も示されてゐませんので、実際に魅力が足りてゐるのか客観的に判断できませんし、足りてゐない魅力を補強するにはどうすれば良いかといふ方針も立てられません。依って、図を書いても恣意的なものにしかなりません。魅力といふものを計る上で主観的な判断が役に立たないとは言へませんが、それは理論とは云へますまい。
 抑〻タイムスケールといふ発想はどこから出てきたのでせうか? 以下のやうな内容があります。

 人間の可能な行動はタイムスケールによって「情報の認識」→「単純な入力」→「能力の発揮」→「継続的な努力」といったように質的に変化していくので、ゲームはこれに応答している、と考えられる。(p.05)

 恐らく心理学あたりの智見だと思ひますが、詳しいことは分かりません。見たところプレイヤーの習熟度といふことであれば該当しさうではあるものの、ゲームプレイ全体を通して当て嵌まるもののやうには思へません。これを根拠としたいのであれば出典を明記し、この4つの段階とワンダールクスが提唱する4つのレイヤーが一致するかどうかを照らし合はせる作業が必要だと思ひます。

まとめ

  • タイムスケールが何なのか分かりません。
    • 私の解釈が間違ってゐるのなら、指摘して欲しいです。
  • 「ゲームそのものの内容」と「プレイヤーが体験として感じること」を別けて考へて欲しい。
    • ゲームデザインとして実際に作るのはゲームコンテンツそのもので、体験は実際にプレイしなければ生まれません。特にレイヤーといふ概念がコンテンツの中身を指してゐるのか、体験の内容を指してゐるのかが曖昧です。
    • ゲームの内容によって生まれうるプレイ体験が方向付けられる訣ですが、論理的な話をする上では両者を混同するのは望ましくありません。
  • 何のための理論なのかといふのを整理しなほして欲しい。
    • ユーザーエクスペリエンス設計といふ方針でいくなら、体験の方が問題になるはずですので、「ゲーム全体の構造」といふのはあまり考へなくて良いと思ひます。
    • 「ゲーム全体の構造」を説明したい場合、「ゲームそのものの内容」に着目した方が考へやすいのではないでせうか。もしかすると、単一神話論のやうなものが見つかる可能性はあると思ひます。
    • 「ゲームクリアまでプレイヤーを導くための処方箋」を目指すとしたら、恐らく別のアプローチが必要だと思ひます。レベルデザインの範疇になるのではないでせうか。
    • 序でに、人間の全ての行為がゲームかどうかはゲームデザインする上では重要ではないと思ひます。世界観としては私も同じ意見ですが……。
  • 魅力とは何かを深く考へるべし。
    • 作者が意図してゐるかどうかは分かりませんが、私としてはタイムスケールやレイヤーなどは忘れて「ゲーム体験上にはかういふ種類の魅力があって、かういふ尺度で計ることができる」といふ話にすれば、実用的なゲームデザイン理論として成立するのではないかと思ひました。
    • 感じ方に個人差があるといふ点については、ユーザーエクスペリエンス設計に於けるペルソナの設定のやうなことをすれば、或る程度の当たりは付けられるはずです。

 以上、全力でぶった切ることになりまして誠に恐縮です。